前キリスト教時代に起源する事柄と関係のある伝承遊戯は他にもあるが,そうした事柄の真の意味合いは,
それを海外の類例と比較したときはじめて明らかになることが多い。というのも,海外ではそれらがより素朴な,あるいは,
より原初的な形態――その唱え文句が韻文ではなく,たんなる問答体となっていたり,出てくるキャラクターが人間よりかは
動物じみたもののように語られる――で行われている場合があるからである。
ハリウェルによってはじめてとりあげられた歌舞遊戯(dancing and singing games)のなかに,彼が〈レディ オブ ザ ランド〉
(The Lady of the Land)と呼びならわしているある遊戯がある。これは「母さんと娘」側と「しらないおばさん」側の二組にわかれて,
「娘」をやりとりするという遊びである。そして,そこではこのような文句が唱えられる――
Here comes a poor woman from Babyland, 哀れなおばさん だーだの国の
With three small children in her hand. 手のものチビスケ三人組よ
One can brew, the other can bake, 杜氏をするのに パン焼き上手
The other can make a pretty round cake. お菓子こさえるやつもおる
One can sit in the garden and spin, こやつはお庭で挽けるよロクロ
Another can make a fine bed for a king. あちらはベットに仕立てるよ
Pray m'am will you take one in? ご婦人 お一人選んでどうぞ
(1846,p.121)*1
ここで一人の子供が指名され,もう一方の側に受け渡される…これが全員が選ばれ終わるまでくりかえされるのである。
ガム夫人はこの遊びに用いられる唱え文句のヴァリエーションを全国で12例ほど採集しているが(1894,I,313),
ここにあげたハリウェルの例のように‘Lady' を「赤ちゃんの国(Babyland)」から来た者としている例は,シュロップシャー州(No.3)と
ワイト島(Isle of Wight No.6)のわずか二例のみで,マン島およびギャロウェイ(Galloway 蘇西岸部,共に付記より) の例は
「バビロンから(from Babylon)」,そのほかも「サンディランド(Sandiland)」(No.9)とか「カンバーランド(Cumberland)」(No.8)
などとしている。つまり‘Babyland' という言葉が用いられているのは,これら13例中3例というわけだが,それでもおそらく,
これがもっともそのオリジナルに近い語だと思われるのである。というのも,ドイツの童戯でこれに相当する遊びに
「エンケルラント(Engelland・天使の国)」という語の出てくる例があるからだ。「エンケルラント」とは,
未だこの世に生れ出でざる魂の国を意味する言葉である。*2
この遊びの,より原初的な形態の一つであるのが,〈こいこい仔犬〉(Little Dog I call you)として知られている遊戯である。(1894,I,330)
これも同様の入れ代り遊びで,たくさんの子供たちをひき連れた女の子が一方の側に立ち,「仔犬(Little dog)」と呼ばれる女の子が一人,
そこから少し離れところに立つ。子供たちはまず個々に自分の側のリーダー,もしくは「飼い主(owner)」とされる子に,
こっそり自分の「お願い(wishes)」を打ち明ける。リーダーは彼らに「笑わないように」としめしおき,それから「仔犬」を呼んで,
「是々の願いを持っている子を当てよ」と命じるのである。このとき当の本人が不覚にも笑いを漏らしてしまったような場合には,
直ちにその子は「仔犬」の側に渡されるが,そうしたことがなければ,「仔犬」は願いの主を推理して子を獲得しなければならない。
またそれが正しく当っていなかった場合には,その子はリーダーの背後,すなわち「仔犬の手の届かない」に移される。これで全員が,
どちらかの側につきおわるまで続けられ,最後に双方が「綱引き(tug of war)」で対戦して決着をつけるのである。
〈レディ オブ ザ ランド〉やこの〈こいこい仔犬〉のような入れ代り遊びは海外にも類例があり,マンハルト(Mannhardt)も,
北ヨーロッパ各地において同様の遊びを14例採集している(M,p.273)。そのなかで〈レディ
オブ ザ ランド〉にもっとも近いのものとしては,ベルギーの例があげられる。この遊び〈金持ちと貧乏人〉(Riche et pauvre)
では,たくさんの娘を伴った側と「子無し」の間にかけひきがくりひろげられ,次のような文句が唱えられる――
Je suis pauvre,je suis pauvre, おいら貧乏 おいら貧乏
Anne Marie Jacqueline; アンヌ-マリア-ジャークリヌ
Je suis pauvre dans ce jeu d'ici. ここじゃおいらは貧乏人
Je suis riche,je suis riche, おいら富豪 おいら富豪
Anne Marie Jacqueline; アンヌ-マリア-ジャークリヌ
Je suis riche dans ce jeu d'ici. ここじゃおいらは大富豪
Donnez-moi un de vos enfants, 御子をたもれやたもれかし
Anne Marie Jacqueline, アンヌ-マリア-ジャークリーヌ
Donnez-moi un de vos enfants,dans ce jeu d'ici. 御子を賜われ わたしめに
(M,No.13)
これもたんに全員の順番が終わるまで続けられる遊びで,〈こいこい仔犬〉のようにそれに続けて何かの遊びに続くようなことはない。
「メアリ」または「魔女」であることもあるが――ドイツの例においては,最初に「子供」たちを所有している側のリーダーが,
異教の神の名をもって呼ばれていることが多い。たとえばメックレンブルク(独北部 Mecklenburg)では,これを「ゴーデンおばさん
(Fru Goden)」とか「ゴールおばさん(Fru Gol)」と呼ぶが(M,No.11),「ゴーデ(Gode)」というのは太母神,すなわち北欧神話のトール神
(Thor)の母親・「ゴットモール(Godmor)」と同類の神の名である。(Gr,p.209,付記より)*3
さらにプロシア(独北部 M,No.10),アルザス(仏東北部 M,No.3),スワビア(独南西部 Schwaben M,No.2),アルゴビエ
(瑞北部 Argovie)(M,No.4)などでは,これを「ローズおばさん(Frau Ros)」「ローゼさん(Frau Rose)」と呼び,
ポメラニア(独東北部 Pommerellen)では「ローゼおばさん(Ole Moder Rose)」もしくは「魔女」の意味のある「テルシエおばさん
(Ole Moder Taersche)」(M,No.1),ホルシュタイン(独西北部 Holstein) では「ローゼンおばさん(Fru Rosen)」もしくは
「マリー母さん(Mutter Marie)」(M,No.9),スイスのアッペンツェル州(瑞東北部 Appenzell M,No.5)やフランスのダンケルク
(仏北部 M,No.6)周辺では,この「子供」の所有者は「マリー母神様(Marei Muetter Gotts)」と呼ばれているという。
マンハルトによれば,この「ローズ(Ross)」もしくは「ローゼ(Rose)」という名称は,ドイツの民間伝承において,
しばしば女神の名として使われる名であるという。筆者は以前「ロスおばさん(Mother Ross)」という人物の出てくる物語を呼び売り本
(chap-books) で見たことがある。この名前は我が国においても,何らかの伝承を有するものなのかも知れない。また「メアリ(Mary)」
という名前は,古い異教の女神の代名としてよく用いられるクリスチャン・ネームにすぎない。
スウェーデンでは「赤ん坊たち」の所有者は,「ソーレおばさん(Fru Sole)」と呼ばれている。彼女は「ヒヨコ」
と呼ばれる娘たちに囲まれて天界に座しているのだそうである(M,No.14)。
スイスでは同様の子とろ遊びを〈天使のお導き〉(Das Englein aufziehen)と呼んでいる(M,No.5)。マンハルトの説によれば,
ドイツ語の「エンケル(Engel)」と英語の‘Angel'は,元来,再生を待つ魂をあらわす言葉であったという。
北ヨーロッパ一帯に棲んでいた異教の民は―ケルト人も含めて―「生」と「死」というものを切り離して考えることができなかった。
すなわち「魂」にとって死とはたんなる過程にすぎない,魂の存在自体は永遠であり,いずれ別の何らかの姿をもって,
ふたたびこの世に現れ出でる,と信じていたのである。母系社会に属する旧文明においては,こうした魂―いうところの「エンジェル」
―すなわち生れ出でざる魂は,母なる女神たち,もしくはすべての神の母たる太母神に関係する「王国」に住まうものとされていた。
そして後世,世界がキリスト教に移行したのち,この「エンジェル」は一群の「翼のある赤ん坊」として描かれるようになった――
中世の絵画によく見られる,聖母子をとり囲んで空を舞っているあれになったわけである。
これで「生れ出でざる魂の住まう国」として,ドイツの童戯・童謡や民謡において一般に用いられているこの「エンケルラント」
という言葉が,私達の遊びにある「ベイビーランド」に直接つながる表現であるということがお判りになられたと思われる。
つまり「赤ちゃんの国の女」とは,ドイツの「ローゼおばさん」や「ゴーデおばさん」と同様に,魂,もしくは再生を待つ魂という意味での
「ベイビー」の世話役たる「母なる神」のことだったのである。
マンハルトは,このようにある一人の女性から,子供達が別の場所へ引き渡されるという形式の遊戯を,
母神崇拝にかかわる何らかの儀式の名残であり,生身より離れた魂が,如何にして現世に引戻されるのかを,
視覚的に表現したものなのではないかと見ている。(M,p.319)
さらにもう一歩踏み出してもよかろう。
民俗学の常道から言うと,類似した願望の帰着するところには,結果として同じような行動が生じる(*similia similibus…
「類似は類似を生む」という民俗学の祖フレイザーの言葉がある)ということになっている。たとえば,子宝を願う女性が
(*まじないとして)空の揺かごをゆらすのは,イギリス・ドイツ共通の習慣であるし,そうした女性がある種のお宮(shrine
聖堂・霊場)にお参りするのもそうだ。
もともとの祭儀がどのようなものであったのか今となっては知る由もないが,筆者は〈ベイビーランド〉は,
マンハルトの言うように,(*人間の死と再生という)たんなる観念的コンセプトを表現しただけのものではなく,
そのような,子宝を願う女性たちによって実際に行われていた何らかの儀式の名残りではないかと考える。そして,
この遊びに見られる様々な特徴は,現にこの仮説を裏付けているようである。
まず,イギリスでもその他の国でも,このゲームは本質的に女の子の遊びとされていること。その歌い文句から見ても,
これが女の子だけで行なわれるものであることは確かである。また遊び手の大半はたんに性別なく「子供たち」と呼ばれるが,
そのリーダーは決って「女性」とされている。
次に,諸外国の例のいくつかに,「塩」について言及したものがあること。(M, No.8,9) たとえばある例では,
子を求める側の女が自分の子を失ったことを嘆くと「子らにお塩をふりかけておけばよかったのだ」ということが言われる。(M,No.8)
「塩をまく」という行為は,ところにより洗礼式(baptism) の場で行われることがある。そうした地域においては,
これは遊びの中の台詞同様に「子供の身を守るため」の行為であるとされている。(1)
さらに,海外の類例中にも,その子が笑ったかどうかによって,子とりが行なわれる例がある。(M,No.2,4,5,8) つまり〈こいこい仔犬〉
同様,「笑った子」が別の所有者のもとへ移されるわけである。「笑い」とは本来,人生を活気づかせるものである。民間伝承において
「笑いを我慢する子供」は,一般に薄気味の悪い不思議な存在とされる。数多い「取り替えっ子(changeling)*4
ものの民話では,そうした子を笑わせ,滅ぼすと,本物の子供が揺りかごに返される,ということになっている
(*これはある意味この遊戯に共鳴する)。
また外国の類例中には,子を求める側の女が,自分はびっこだとか言ったり,実際にそれを証明するため足を引きずって見せたりするという例がある。
(M,No.1,2,14) ある例では,女はびっこなのは足の骨のせいだと言っているが,マンハルドはこの「びっこをひく(limpling)」
という行為は産後の女性の特徴であると指摘している。(M,p.305) ドイツの俗語では,女性が妊娠したことを,
子供を運ぶ「コウノトリ(stork) に(*足を)噛まれた」,と云いならわす。我が国にも,同様の発想から来たと思われる,
このようなことわざ唄がある――
The wife who expects to have a good name, めでたく奥さん善き名を待つ身
Is always at home as if she were lame; 家内じゃ何かと足引く身
And the maid that is honest,her chiefest delight まったきおなごの至福こそ
Is still to be doing from morning till night.(2) 終日(ヒネモス)さこそすることよ
また,外国の例の一つには,相手側に勝ち取られた子には「犬の名前」が付けられ,前の所有者が取り戻そうとすると,
彼女に向かって吠えかかってゆくこととなっているものがある。(M,No.1) これは我々の〈こいこい仔犬〉で,
離れて立つ子が「小っちゃなワンコ お召しだよ(Little Dog I call you)」と呼ばれることに通ずる。
グリムは「犬」というものがなぜ子供の誕生に立ち会う「ノルニス(Norns)」*5――
またの名を「運命の乙女たち(Fate-maidens)」と関係付けられるようになったのかは分からないと言っているが(Gr,p.339),
マンハルトによれば,ドイツには死者の魂をしばしば「犬のようなもの」とする信仰があるそうである。(M,p.301)
イギリスにも,夜半どっと吹き抜けてゆくような風を「犬」とする,「ガブリエルの猟犬(Gabriel hounds)」もしくは
「ガブリエル・ラチェット(Gabriel ratchets)」という俗信がある。*6
他の遊戯中でさして意味のない事柄とされている事象のなかにも,同じような証拠が秘められている場合もある。
〈ハンカチ落とし Drop-handkerchief)*7 というゲームがある。
ハンカチを掲げもった一人の女の子が,円に並んだ他の仲間たちの周囲を回りながら,こんな文句を唱えるのだが――
I have a little dog and it won't bite you うちのワンコは噛みません
It won't bite you,it won't bite you[ad-lib] 噛みませんったら噛みません…
It will bite you. (1894,I,109) そら噛んだ
この遊びでは,「仔犬」にハンカチを授けられた(*次のオニになる) 者のことを「(*犬に)噛まれた」者と表現する。
すなわち「彼女」は,ドイツでいう「コウノトリに噛まれた」とか,同じくドイツにおけるこの遊びの類例に出てくる「足の不自由な」
女性と同様の境遇にあるとされているのだ。
デップフォード(ロンドン南東)の〈ハンカチ落とし〉では,子供たちが――
I had a little dog whose name was Buff, 僕のワンちゃん名前がバフ
I sent him up the street 一ペニー分の ぎ煙草
For a pennyworth of snuff. 買ってこいよと街に遣る
He broke my box and spilt my snuff 壷は壊すし煙草はまかす
I think my story is long enough − 話しの先はまだもある…
'Taint you,'taint you, 違う 違う
And 'taint you,but 'tis you. (1894,I,p.111) あんたも違うよ あんただよう
――と歌う。ラッシャーの出したわらべ唄集にも,
I had a little dog and they called him Buff, 私のワンちゃん人呼んでバフ
I sent him to a shop to buy me snuff, 嗅ぎ煙草をば買いに出す
But he lost the bag and spilt the snuff; 袋なくすし 煙草もまかす
I sent him no more but gave him a cuff, お使いもうなし一発はたく
For coming from the mart without any snuff. 市場行っても煙草も買えぬ
――という唄が見られる。
ちなみにこの「バフ(Buff)」という語が,犬の名前として使われるようになったのは,1567七年以降のことであるという。
(3)
〈第8章注〉
○原注
1 S.O.Addy“House Tales and Traditional Remains",1895,p.86 および 120 参考
2 H.Bohn“A Handbook of Proverbs",1901,p.43
3 “Murray's Dic.", ‘Bufe' の項より
○訳者補足
‘Lady of the land' というこの遊びの名称は,その唱え文句の冒頭からきたものなのだが,肝心の「レディ」の出てくるヴァージョンは,
Ecken.も Halliwel もなぜかとりあげていない。そこでまずこの唄を紹介することとしよう――
Here comes the lady of the land,
With sons and daughter in her hand;
Pray,do you want a servant to-day?
What can she do?
She can brew,she can bake,
She can make a wedding cake
Fit for you or any lady in the land.
Pray leave her.
I leave my daughter safe and sound,
And in her pocket a thousand pound,
And on her finger a gay ring,
And I hope to find her so again.
(1894,No.1)
Mrs.Gomme はこれを,リーダーの背後もしくは両側に一列に並んだ「娘」たちを‘lady' が一人づつ指名してゆく〈花いちもんめ〉型の遊びとし,
Halliwellは子供たちの輪のなかに立った一人の子供が次のオニを選ぶ〈指差し鬼〉だと言い,また,次のオニにはかならず異性を指名するという。
これらの説明から考えると,この遊びも前章とは逆に(前章補注参照)Ecken.のいうような「女の子の遊び」ではないようだ。また,
この遊びの起源について,Ecken.とGomme の考えには大きな隔たりがある。Ecken.は〈サリー.ウォータース〉からの流れを引いて,
こうした〈指差し鬼〉を太母神崇拝の儀式の遺風ととらえているが,Gommeはこれを,昔の貧しい農村においては一定の年齢になると
娘を奉公に出さざるをえなかったという現実を下敷きにした,母娘の別離を再現したもの,もしくは収穫祭にさいし演じられる
‘Master and Servant'(ご主人様と召使)ものの寸劇に由来する遊戯であるとしている。
なお Chambers の収集1870にも‘The widow from Babylon' という〈かごめ〉型の指差し鬼が紹介されている。(1870,p.136)
ここではオニに指名された子は,好きな男の子の名前を白状するということになっている。
またこの章において Ecken.が度々とりあげている〈こいこい仔犬〉という遊戯についても補足が必要であろう。この遊びの詳細は以下のとおり――
女の子たちが壁を背にして一列に並ぶ。
リーダーは個々の‘Wish' を聞いて回り,すこし離れたところに立った「仔犬」を呼んで,こんな問答を交わす――
(Leader)Little Dog I call you. (Dog) I shan't come to
please you.
〃 I'll get a stick and make you, 〃 I don't care for that.
〃 I've got a rice pudding for you. 〃 I shan't come for that.
〃 I've got a dish of bones. 〃 I'll come for that.
「仔犬」がやってくると,質問が手向けられる。
All the birds in the air, あまつむれなす うもうの やから
All the fishes in the sea, おおわだつみの うろくずく
Come and pick me out ここにあれませ きこしめせ
(〜をねがったコはだぁれ)
他の子は何を望んでも自由だが,最後の子だけは四択になりこの詞の後に
A brewer or a baker, 杜氏(トウジ)になりたい? それともパン屋さん?
Or a candlestick maker, もしかしたらば あんどんや?
Or penknife maker. それとも かみきりナイフやさん?
――という一節が付く。なお Gomme の解説には,二手に別れた後,線を一本引いて「引っ張りっこ」する,とは書いてあるが,特に「綱引き」とはしていない。
Ecken.はこの遊びを‘The Lady of …’の primitive form だとしているが,その根拠については明らかにしていない(引用されているGomme
夫人の解説中にもそのような説は見当たらない)。またGomme の録した,これに似て一列に並び,子とりをする型と,Halliwellや
Chambers のいう「かごめ」型の遊戯との相違や関係についても言及はない。Ecken.は‘Country Dance−Game−Rhyme’という筋を織り交ぜつつ,そこに隠された事象はことごとく,過ぎにし「母の時代(母系社会)」に由来するというところに帰着させようとしているが,論はやや結論に先走り,全体に引証も弱く,後の発見・研究などから今では反駁されている説も多い。
ゆえに訳者も Ecken. の唱えるこの3章分の説・論旨には賛同しかねる点が多々見られた。よってこれらの説を引くときには多少注意されたい。
○訳者補注
*1 原文は一行目を‘Here comes a woman…’としている JOH,1849 により改む。
*2 ‘Engelland',一般のドイツ語ではたんに‘England'の古語とされている。
*3 グリムの原書には‘die Verml nder nennen Thors frau godmor,gute mutter.’とある。
トールの「母親」ではなく「妻」が正しい。Ecken.の誤謬ならん。
北欧神話の雷神トールの母親は,大地の女神ヨルド(I嗷d)とする伝承が一般的であり,
その妻は同じく豊穣と大地母神両方の特性を有す「黄金の髪」のシフ(Sif)とされるが,シフは「トールの妻」として確定的な神格ではないという説もある。
‘Fru Gode' および‘Fru Goden'については第1章の補注参照。グリムによれば,これらの座す場所はしばしば「王国」(de koen) と呼ばれるという。
(Gr,p.209 note,p.207/『古代北欧の宗教と神話』F.シュトルム 菅原邦城訳 人文書院 参考)
*4 妖精が赤ん坊をかどわかし,代りに赤ん坊の姿に化けた妖精,もしくは木偶の類を置いてゆく。
近隣の物知り婆(又は魔女)や牧師などの忠告に従い,卵の殻を醸すなどの奇行によって,母親はこれを見破る。
一説に炎の上にかざすと逃げてゆくとも云われる。同様の民譚はアイルランド及び英・独両国に見られる。
*5 ‘Norns'は運命を宰る精霊の総称。子供の誕生に際して現れ,ロウソクもしくは計算棒(スキーズ)
によりその寿命を定めるという。一説にその出現時犬を伴うといわれている。これがイグドラジル(世界樹)の泉の辺に住まう
ウルズ・スクルド・ヴェルダンディ の三姉妹とされるようになったのは中世以後のことである。
*6 夜半の突風を凶事の先触れとみる迷信。死神の魂狩の先陣をつとめる幻の犬。
未洗礼のまま死んだ子供や免罪されぬ人の魂が最期の審判の日まで空中をさまよう姿とされる。赤い耳をした白い犬,もしくは「黒犬」
とされるが,これは同様に一陣の風と共に現れる「悪魔の犬」と混同されたものらしい。文献上は上注の「ノルヌの犬」ではなく,
北欧の最高神にして死神でもあるオーディンが「魂狩り」に伴う猟犬の伝説からきたものとする説が多い。「ガブリエルの猟犬」
のガブリエル は大天使ガブリエル のこと。死と審判を宰り,死者の霊魂を導くとされている。
これらの伝承についてはさらに第12,13章においても言及されている。
*7 ‘Drop-handkerchief'もしくは‘Drop the Handkerchief'。一人を除いて全員が内側向きの円に並んで立つか座る。
最初に除かれた一人がハンカチを持って円の外を走り,誰かの後ろにそっとそれを落とす。他はハンカチ持ちが通過するまで後ろを振り返ってみてはいけない。
ハンカチを落とされた者は直ちに落としていった者を追い駈け,背中を打つ。背中を打てたら相手に入られないうちに元の場所に戻る。
二人のうち早く空いている場所に入った者が勝ち,次にその場所に入る権利を得る,入れなかった方が次のオニになる。
前章補注1の‘Kiss in the Ring' はこれの類例にあたる。
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