純粋に「わらべ唄」といえる作品の多くは,伝統的な踊りや歌遊びに由来している。今や児戯にまでおちぶれてしまってはいるが,
それらは有史以来伝え継がれてきた,前キリスト教時代の‘choral dance'(儀式に付随する合唱舞踏)の末裔なのである。
そもそも「踊る」という行為は,もとから暇潰しや意味のない気晴らしの娯楽として発生したわけではない。舞踏は,
たとえば邪気をはらって農作物の成育を助長するなどという観念と密接に結びつく,重要な役目を担わされていた。そうした伝承舞踏は,
毎年決った時期に催される種々の祭礼に組み込まれている。またそれらには,意味ふかげな唱え文句や,それに合わせた様々な身振りがつき,
ダンスに一種ドラマチックな要素を加えている。
キャロル(carol 祝歌)という英語は,フランス語のカローラ(caraula) という言葉と関係がある。これは7世紀,北フランスで,
エリギウス僧正(Bishop Eligius of Noyon d.659)*1 が,異教的として禁じた風習の一つであり,
ともにギリシャ語のコレイア (χορεια…宗教的祭礼において催された合唱舞踏)やドイツ語のライヘ(reihe)あるいはライケン
(reigen)*2,ブレトン語のカロール(karol),またスイス東部方言でいうカローラ(caraula)などと
同じ起源を持つ言葉である。
時の流れのうちに,これらの儀礼的舞踊はその宗教的な意味合いを失ったが,その技は娯楽として伝承され,生き残った。
今見られる子供の遊びや,ダンスホールで気晴らしに行なわれるダンスは,じつにそのなれの果ての姿なのである。
そうした過程をへてきたと思われるダンスのうち,もっとも最近まで残っていたものに〈コティヨン〉(Cotillon) がある。
この言葉が我が国で用いられるようになったのは,早くても1766年以降のこと。バーンズの『タム・オ・シャンター』(Tam
o'Shanter,c.1790)ではまだ,「フランスから入りたて」のダンスだと言われている。*3
今日行なわれている〈コティヨン〉は,パートナーの選択が自由で,一順ごとにその相手を選ぶ権利は女性の側にあること,
また踊りの輪を率いる特定の人物がいること,小座布団が小道具として使われ様々な役割を果たすことなどをその特徴としている。
また〈コティヨン〉は一般に,舞踏会のしめくくりとして催されることになっている。
〈コティヨン〉の前身として,17世紀に〈ジョウン・ソンダーソン あるいは クッション・ダンス〉(Joan Saunderson
or the Cushion Dance) として知られていたダンスがあげられる。〈ジョウン・ソンダーソン あるいは クッション・ダンス〉の踊り方は,
プレイフォード(H.Playford)の『ダンスの達人−舞踊集曲譜付・若人向き』(The Dauncing Master,a collection of dance
with tunes for young people) に詳しい。この本の初版第1巻が出されたのは1650年であるが,のち,巻を重ねたおり,
増補改訂が施されている。このプレイフォードの『ダンスの達人』からは,娯楽のダンスに地方の伝承舞踊がどれほどとりこまれたかをうかがい知ることができる。
なんとなればそこには,〈マルベリー・ブッシュ〉(Mulberry Bush)*4,
〈グリーン・スリーヴス〉(Green Sleeves) などという,今ある伝承舞踏や歌遊びと一致する名前が散見されるのである。
プレイフォードによる〈ジョウン・ソンダーソン あるいは クッション・ダンス〉の仔細は,以下の通り――
(1)
まず二人のダンサーがフィドル(弦楽器)の曲に合わせて,それぞれ小座布団と角杯を運んでくる。座布団を持っている方はドアに鍵を掛けて,
その鍵を懐におさめ,一人で部屋を踊って回る。それから楽士を相手に,女の子を一人みつくろい是非なくダンスに出てもらう,
といった旨の口上を交わす。つぎに女性たちの中から「ジョウン・ソンダーソン」が指名される。座布団持ちが選ばれた女性の前に,
その小座布団を敷いてひざまづく。次に彼女も同様の所作をして,最後に角杯から酒をいただく。二人がキスを交わし,一緒に踊りだすと,
同じセレモニーがそこここの男女の間でくりかえされ,各々相手が決ったものから「座布団持ち」たちの踊る後にどんどん続いてゆき,
最終的には集まった者全員が踊りの輪と化すのである。
セシルトン・ダイヤーによれば,1624年に書かれたオランダの版画で,この〈ジョウン・ソンダーソン…〉
を踊っている場面を描いたものがあるらしい(1876,p.254)。
英国の各地には今も〈ジョウン・ソンダーソン…〉と同じ作法をもつダンスが,同じ,あるいは似たような名前のもとに伝えられている。
たとえばダービーシャー(Derbyshire 英中部)では,これを〈クッション・ダンス〉と言い,踊りの輪を率いてゆく二人は
「ジョン・サンダース(John Sanders)」および「ジェーン・サンダース(Jane Sanders)」と呼ばれる。低地スコットランドではこれを
〈バビティ・ボウスター〉(Babbity Bowster)*5 という。‘bowster'は‘bolster'(長枕)
のことであり,英北部で云う〈ホイッシン・ダンス〉(Whishin Dance)の‘whishin'も,‘cushion'の一方言に過ぎない。(1894,I,pp.9,87)
これら〈クッション・ダンス〉は一般に,結婚式の最後に行なわれる舞踏とされている(2)が,
ノーザンプトン州(英中部)では,五月祭(May-Day)の祝宴をしめくくる舞踏であったという。(1876,p.253)
舞踏会の場で催される〈コティヨン〉では,最後に踊りの輪をほどいて,めいめいカップルを組んでの(*ふつうの)ダンスに移行するが,これら民間の〈クッション・ダンス〉では,既婚者のカップルがしだいに引っ込み,最後にひとつ大騒ぎ(romp)してしめくくられることになっている。『ダンスの達人』の後の版
(1698年版 p.7)には,ダンスの記述に続いて,結ばれていた踊りの輪が解かれたら,ダンサー各位は代わる代わる自分のパートナーに一礼し,すみやかに部屋を後にすべし,という一節が書き加えられているが,これはおそらく,その手の無礼講行為を未然に防止しようという狙いがあったものとおもわれる。
〈コティヨン〉と〈クッション・ダンス〉の間には,この両者を結びつけるのに十分な類似点がある。たとえばパートナー選択の自由,
小道具としてのクッションと,参加者を踊りの輪へ引き込む者の介在,そしてともに舞踏会終結のダンスであること,
これらは両者共通の特徴となっている。さらに〈クッション・ダンス〉が〈コティヨン〉よりも古いものであることは,
これが婚礼の儀式や,かつてお見合い(mating)や結婚(marriage)の場であった五月祭の祝宴と関連づけられていることからも判じられよう。
こうしたお見合いや婚礼行事との関係を同様に色濃く遺し,今もイングランドにおいて広く行なわれている伝承遊戯に,一般に
〈サリー・ウォータース〉(Sally Waters)として知られる遊びがある。そして,その唱え文句から見るに〈クッション・ダンス〉は,
この遊び〈サリー・ウォータース〉の一発展形である可能性があるのである。
〈サリー・ウォータース〉は,遊び手たちが輪になって,男の子と女の子が交互に相手を選び,契りを交わす――たとえば手をつないだり,ひざまづいたり,
キスしたり――という遊びである。その唱え文句はハリウェル(1849,p.133)によって初めて採録され ガム夫人(Mrs.Gomme) の本には
この遊びに用いられた英国各地の唱え文句が,49種余りもあげられている。また,彼女はこれを「結婚遊び(marriage games)に分類している。
(1894,・,461) さて,プレイフォードの本によれば〈クッション・ダンス〉は別名〈ジョウン・ソンダーソン〉
とも呼ばれたことになっている。またこのダンスの引率者は「ジョウン・ソンダーソンとジョン・ソンダーソン」とか
「ジェーン・サンダースとジョン・サンダース」などと呼ばれるが,これらと同様の名前が〈サリー・ウォータース〉
の唱え文句にも見られるのである。例えば,ペンザンス(Penzance 英西南端)の例では,子供たちは輪になって,こう唱える――
Little Sally Sander sitting in the Sander, 小っちゃなサリー サンダー座るは足駄
Weeping and crying for her young man. 若殿いとしや むせんだ泣いた
Rise,Sally rise,and wipe away your tears; いざやたてたて 涙をぬぐって
Choose to the east,choose to the west, 東の西の みなさんの
And choose to the very one that you love best. さてもとりませ いちばんを
Now you're married we wish you joy, 結婚したらば 娯しみゃよい
First a girl and then a boy, 一姫二太郎 生れてほい
Twelve months after son and daughter, 一年たったら 娘にせがれ
And join hands and kiss together. むすんでキスして出ておいで
(1894,No.26 *2nd line〜原書より補足。‘sander’には靴磨きの意味もある)*6
また,同じ遊びに使われるリヴァプール(英中西部)の唄には,
‘Little Polly Sanders sit on the sand'(同書No.42)
さらにヨークシャーの唄の出だしにも,
‘Little Alice Sander sat upon a cinder,'(同書No.31)
――などという名前が見られる。これら‘Sally Sander'‘Polly Sanders'などといった名前が,〈クッション・ダンス〉の
‘Saunderson' や‘Sanders'と起源を同じうするものであることは明白である。児童間に流布されているわらべ唄には,
これらの唱え文句と同じテーマをもっている唄がたくさんあるが,それらはこうした唱え文句を共通の祖型として派生したものであるといえよう。
実際,ペンザンスの‘little Sally Sande'とか,リヴァプールの‘little Polly Sanders' や‘Alice Sander sat
upon a cinder'から,童謡集によく収められている次のようなわらべ唄などへは,ほんのワン・ステップに過ぎないではないか。
これらの唄ではまず(*サリーウォーターズの唄同様に)一人の人物が「座って」「待って」いるところが描かれている。
しかも彼らはほとんどかならず「椅子」や「クッション」のようなものに腰掛けているのだ。
結婚云々を示唆するような個所が削られているのは,それが子供たちにとっては馴染み薄な事象であったためであろう。
Little Polly Flinders sat among the cinders, ちっちゃなポリィ フリンダース
炭殻山に鎮座す
Warming her pretty toes; 可愛いあんよをぬーくぬく
Her mother came and caught her, 母さん出てきてつかまえた
And scolded her little daughter, そんでどえらくしかられた
For spoiling her nice new clothes.(1846,p.212) だってだいなしおニューの洋服
Little Miss Muffet sat on her tuffet, ふみやのお嬢さん 踏台かけて
Eating of curds and whey, 食べてた凝乳(カード) に乳清(ホエイ)
There came a great spider 巨グモがおなり
And sat down beside her 彼女のとなり
And frightened Miss Muffet away.(3) ふみやの嬢ちゃんさて悲鳴
Little Mary Ester sat upon a tester こしかたさんが こしかけて
Eating of curds and whey; 食べていたのが凝乳に乳清
There came a spider クモさまおなり
And sat down beside her, 彼女のとなり
And frightened Mary Ester away. こしかたさんたら悲鳴で亡命
( 1842,p.61//*co p.46…原書は3行目を‘There came a little spider'とする)
‘taffet' と‘tester' はともに踏み台(footstool) をあらわす言葉である。
Little Miss Mopsey sat in the shopsey, 可愛いチビさん 座るは玄関
Eating of curds and whey; 凝乳に乳清がひるごはん
There came a little spider 巨グモのおなり
Who sat down beside her 彼女のとなり
And frightened Miss Mopsey away. 可愛いチビさんご災難
(1842,p.37//*co p.29…原書は3行目を‘There came a great spider')
Little Tom Tacket sits upon his cracket, トムはチビだい 座るは足台
Half a yard of cloth will make him a jacket 上着に一尺 布を買い
Make him a jacket And breeches to the knee, 布が余って ズボン縫い
And if you will not have him, ゆるせないかい?
You may let him be. (1842,p.199)*7 ほっとけぬ?
Little Tom Tucker sing for his supper, ちびすけトムちゃん 歌うはご飯
What shall he eat,but while bread and butter; ごはんはなあに バタつき白パン
How will he cut it,without e're a knife 切ったのなあに ナイフ
じゃないふ
And how will he be married よめさんもないのに
Without e're a wife. (1744,p.10/c.1783,p.56) どうしてふうふ?
Little Jack Horner sat in the corner ジャックはちびっこ 座った角っこ
Eating a[of] Cristmas pie; 食べていたのがクリスマス パイ
He put in his thumb, 突っ込む親指
And he took [pulled] out a plum, ひきだす中味
And said[cried] “What a good boy am I !" おいらなんともよいこのきわみ!
Chorus: And what a good boy am I! 「おいら何とも良い子の極み!」
(c.1783,p.55)
こうして整理してみると,これらがもとの〈サリー・ウォータース〉に用いられていた文句からはずれていった経緯が忍ばれる。
‘Tom Tucker’や‘Jack Horner'なども,しばしば歴史的ないわれが取佐汰される名前である。たとえばブランド*8
によれば,1607年以来,毎年11月1日に催されている聖ジョン大学の大宴会では「クリスマスのお殿様(Christmas Lord)」に選ばれた者を
「トーマス・タッカー
(Thomas Tacker)」と呼ぶことになっている。(4)『ダンスの達人』にも〈トム・タッカー〉
という題の曲が見られる。(5)
‘Jacky Horner' という名前の出てくる唄が,1720年ころ,詩人・キャレイにとって親しみ深いものであったことはすでに述べた通りである
(第2章参),またホイットモアによれば,この《ちっちゃなジャック・ホナー君》(Little Jack Horner)の曲は『三文芝居』
(Grub Street Opera)*9 の演出に合唱されたこともあるらしい。
(6)
かの『ジャック・ホナーのとんち溢るる華やけき一生涯』(The Pleasant History of Jack Horner,containing
his Witty Tricks)*10 など彼の名前をタイトルに掲げたチャップ・ブックスが出されたのは,
18世紀後半になってからのことである。これはまずお馴染みのわらべ唄を引き,続いて主人公が女性たちにしかけた悪戯の数々を描いたものである。
このお話しと,その‘Horner' という名前からは‘hornified'‘horning'‘Horn Fair'などといった表現が思い起こされる。
‘hornified'は寝盗られ男を指し(7),‘horning'は「結婚式にかかせない」セレナーデもどき
*11 の曲を奏でること。そして‘Horn Fair'はケント州(英南東部)に今も伝わる行事。
「ホーン・フェアには何でもアリよ(All was fair at Horn Fair)」と言倣わされる,一種の無礼講期間のことである。
(1876,p.387)*12
〈第6章注〉
○原注
1 Playford “The Dauncing Master" 1686年版 p.206より
2“Murray's Dictionary"‘Cushion Dance'の項目参照
3“Songs for the Nursery" Darton & Co. 1812より
ただしこの本にある唄は子供向けに手が加えられているようだ。
4 Brand “Popular Antiquities" 第一巻 p.219
5“The Dauncing Master" 1686年版 p.130
6 Whitmore 前述(一章注参) p.27
7 Murray's Dic. Horningの項目参照
○訳者補足
〈コティヨン〉について些か補足を加えたい‘cotillon' というのは女性の下着(アンダースカート/ペチコート)の意味で,この踊りのはやし文句である――
Ma commere,quand je danse さあさおばさん踊りましょ
Mon cotillon,va-t-il bien? どばっとはしょれ下袴
――から出た名称といい,エロティックな振付によって豊饒を祈る儀礼的な民間舞踏に起源をもつとされる。
ソシアル-ダンスにおいては,はじめ4〜8人が鎖状に並んで真横にステップを踏んでゆく古風なダンスを指す語であったが,
アンシャン-レジーム崩壊の頃から,同様に舞踏会の最後に催されていた〈ファランドール〉などと混同されるようになったという。
(“Dance in Society",1969,p.62より)。
○訳者補註
*1 Eligius of Noyon(588−659) ノワイヨン司教在位 640−48。別名 St.Eloi。金工術・鍛冶屋・金銀細工師の守護聖人。
北ゲルマンの人々に対し自ら改宗・教化にはげんだ。(“Dictionary of Christian Biography",・,p.93 他参照)
*2 ‘reihe'だとこの意味にならないから,正しくは‘reihen' であろう。
*3 Robert Burns(1759−96) スコットランド を代表する詩人。“Tam O'Shanter"はトムが魔女に追いかけ回されるお話。
*4 ‘Mulberry Bush'は輪を組んで
Here we go round the mulberry-bush,
The mulberry-bush,the mulberry-bush:
Here we go round the mulberry bush
On a sunshine morning.
――と歌いながら踊る遊び。
*5 ‘Babbity Bowster'は別名‘Bab-in-the-Bowster Bab-at-the-Bowster'
とも呼ばれる(N.& Q.1stS.・.517〜18,・.45)。またChambers,1870,p.36,には同じ名で同様の歌い文句のものが「子供の」スポーツの一つとして紹介されている。
*6 原書は最初の二行のみを掲載。ガム夫人の“Traditional Games …"(1894) のp.159〜60により原詩全文を補足した。
*7 原典指定個所に唄なし。1842,p.155の所載のものも多少これと異なる。
Little Tommy Tacket,
Sits upon his cracket,
Half a yard of cloth will make him a coat and jacket;
Make him a coat and jacket,
Breeches to the knee,
And if you will not have him,you may let him be.
*8 John Brand (1744〜1806) 好古・地誌学者。著書“Popular Antiquitie"
は彼の死後,未整理稿からおこされた大著で,H.Elis の編になる版ほか W.C.ハズリットによる増補版などがある。
*9 ‘Grub Street'…原著はここを イタリック表記としておらず,また典拠とされるWhitmoreの原文も見られなかったが,
N.& Q.5thS.No.123 1876に寄せられたE.Rimbaultの記事によれば,これはたんに「三文芝居」の意ではなく
1731年に上演された歌劇のタイトルであるらしい。
*10 本当の題名はOXDNR(p.234)示すところの“The History of Jack Horner.Containing,
The Witty Pranks he Play'd,From his Yourth to his riper Years,Being Pleasant for Winter Evenings"であろう。
現存する最古の版は1764年日付。またOpieの解説による内容はEcken.の述べているそれ
(「女性達に仕掛けた悪戯を列挙云々」とは少々異なるようである。
*11 原文‘mock serenade'(セレナーデもどき?) の意味するところは定かでない。
音楽の世界では夕べの静閑にふさわしい叙情的で穏やかな楽曲を指して夜曲(セレナーデ)
という。結婚式のムードを盛り上げる「そんな感じの」演奏を言ったものだろうか。
*12 E.Fuchs の『風俗の歴史』よれば,かつてイギリスでは市のたつ日に‘Horn Market'と呼ばれる妻の売却,
一種の売買婚が催されることがあったそうである。(E.Fuchs『完訳風俗の歴史』6巻 p.31 角川文庫)‘Fair' も‘Market' も,
ともに「市」を示す語である。この二つは同源の風習かもしれない。ちなみにガム夫人は‘Sally Waters' の解説の中で,
この遊戯の特徴と,こうした下層階級の結婚風習との関連を示唆している。(1894,p.177)
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